ムンバイの裏路地を歩いていると、上半身裸の男が石のすり鉢の前に腰を下ろしていた。大きな石のすり鉢と石のすりこぎを使って、ひたすらスパイスをすり潰しているのである。電動ミキサーがいくらでも売られているインドで、あえてこんな重労働を続けるのは奇特なことに思えるが、どうやら伝統の手作業にこそ意味があるらしい。現代家電が生む粉よりも、石に押し潰されて生まれる香りの方が立つというのだから、科学か信仰か判然としない。もっとも、男自身はそんな哲学を口にする風もなく、ただ淡々とすり鉢を回しているだけだ。
インドでは香辛料が欠かせない。カルダモンやクローブ、クミンやコリアンダーといったスパイスは、カレーだけでなく日常の食卓に入り込んでいる。粉末の配合で家ごとの「家風」が決まり、同じカレーでも千差万別の味になるという。だからこうした石のすり鉢による手作業は、家庭の味を守る最後の砦ともいえるのだろう。重たい石を扱うのは骨が折れるが、男の顔は涼しい。観光客相手に「電気は便利だろう」と笑ってみせる余裕さえ漂う。考えてみれば、ここムンバイの喧噪の中では、石を擦る音の方がよほど健全なリズムなのかもしれない。
こうして丁寧に作られた粉末スパイスは、きっとどこかの鍋に入れられ、庶民の昼飯を彩るのだろう。僕などは汗をかいて見ているだけで疲れてしまったが、男はものともせず、にやりと笑った。なるほど、カレーの辛さよりも、この労働の方がよほど熱いに違いない。
2011年3月 インド 人びと | |
男性 ムンバイ 上半身裸 香辛料 スプーン 石 |
No
5243
撮影年月
2010年9月
投稿日
2011年03月01日
更新日
2025年09月09日
撮影場所
ムンバイ / インド
ジャンル
ポートレイト写真
カメラ
CANON EOS 1V
レンズ
EF85MM F1.2L II USM