俳人であり歌人であった正岡子規にはどうしても病床に伏しているイメージが付きまという。肺結核に蝕まれた子規は最晩年の3年間を寝返りも打てないほどの苦痛を麻痺剤で和らげながら、創作活動に勤しんだというから仕方がない。日本に野球が導入された頃の熱心な選手であっただけでなく、自身の幼名にちなんで「野球(のぼーる)」という雅号を使ったこともあるというエピソードを聞くと意外に感じてしまう。
東京の根岸にある子規庵にも野球好きだったことを思い起こさせるようなものは何もない。子規庵は1894年から亡くなる1902年まで正岡子規が暮らしていたところ。旧前田侯爵の下屋敷の御家人用の二軒長屋だったらしいこの家に、故郷より母と妹を呼び寄せ、子規は病室兼書斎・句会歌会の場としていた。足を踏み入れると、すぐに窓際に置かれた文机が目に入ってくる。家族三人で暮らすには狭い家だ。
子規が住んでいた頃は、庭から上野の山を望むことが出来たらしいけれど、それは100年以上前のこと。今では上野の山はおろか隣の家しか見えてこないし、周辺はラブホテル街だ。もし正岡子規が生きていたら、このラブホテル街の中にある居宅で、どのような句を詠むだろう。
2023年12月 静物 東京 | |
机 根岸 ノート 反射 窓 |
No
12549
撮影年月
2023年5月
投稿日
2023年12月27日
更新日
2023年12月28日
撮影場所
根岸 / 東京
ジャンル
建築写真
カメラ
SONY ALPHA 7R V
レンズ
ZEISS BATIS 2/40 CF