池谷裕二という脳科学者の著書『進化しすぎた脳』によれば、人間の表情というものは、どうやらほとんどの人類で共通しているらしい。確かに、言葉の通じない異国であっても、笑いかければ笑顔が返ってきて、眉をしかめれば何かが不快であることが伝わる。そこに言語は必要ない。説明もいらない。ただ顔の筋肉が、そのまま心を語ってくれる。
けれども、ボディサイン──身振りや手振りとなると話は別だ。たとえば、日本やアメリカではうなずくことが「はい」の合図であるけれど、ブルガリアではそれが「いいえ」になる。イランでは、顎を斜めに動かしても「向こうへ行け」という意味にはならず、やはり「ノー」を意味するという。
そんな文化の違いにまつわる記事を読んでいたある日、ひとつの記述に目が止まった。「イギリス、アイルランド、オーストラリア、ニュージーランド、インド、そしてパキスタンでは、裏ピースサイン(手の甲を相手に向けたピース)は、中指を立てるのと同じくらい侮辱的な意味合いがあります」──そんなことが書かれていた。
はっとして、ある記憶が蘇った。ムンバイの町角で、スナックを買ってご機嫌な女の子にカメラを向けたときのことだ。レンズ越しに、彼女がにこりと笑って、裏ピースを掲げたあの瞬間のこと。
あれは、僕に対する侮蔑だったのだろうか?
……いや、違う。そうではない。きっと彼女は、ただ無邪気にテレビやスマホで見たポーズを真似しただけだろう。子どもが覚えたての英単語を口にするように、意味の深さなど知らぬまま、ただ遊び心で手を動かしたにすぎない。
そう信じたい。そして、たぶんそれで正しいのだと思う。
彼女の表情は、あくまで笑顔だったのだから。
2025年3月 インド 人びと | |
女の子 ムンバイ ピースサイン 笑顔 |
No
12849
撮影年月
2024年5月
投稿日
2025年03月25日
撮影場所
ムンバイ / インド
ジャンル
ポートレイト写真
カメラ
SONY ALPHA 7R V
レンズ
ZEISS BATIS 2/40 CF