ムンバイを歩いていると、一台の自動車が目の前を横切っていった。車体の側面には大きくデーヴァナーガリー文字で何やら書かれている。僕の目にはただの線と丸の集合にしか見えないが、インドの人々にとってはごく当たり前の日常の文字なのだろう。よく見ると数字までもがデーヴァナーガリーで表記されている。数字といえば世界共通だと勝手に思い込んでいた僕には、少しした文化的裏切りのように感じられた。もっとも、この数字体系こそがインドで発明され、ゼロの概念が世界に広まったことを思えば、裏切られたのはこちらではなく、歴史の方なのかもしれない。
ムンバイの喧噪の中で、デーヴァナーガリーの文字列は妙に堂々としていた。横を通り過ぎた自動車は「モータースクール」とでも書かれているらしいが、どうにも僕の目には暗号のように映る。ゼロの発明で世界を変えたこの国の人々にとって、文字の形や数字の表記が多少違ったところで、不便どころか誇りの種になっているのかもしれない。インドの街角では、看板、車体、ビルの壁、どこを見てもデーヴァナーガリー文字が氾濫していて、異邦人にはそれがすべて謎かけのように迫ってくる。
助手席の若い男は窓の外を眺めていたが、視線は僕に向けられたわけでもなく、しかし妙にこちらの存在を知っているようでもあった。運転席の男は片手でハンドルを押さえ、半ば退屈そうに体を預けている。ゼロの発明国でありながら、信号待ちの時間だけは世界共通で「無」に近い退屈さをもたらすのだろう。僕はその場で立ち止まり、ムンバイの雑踏の中で「ゼロ」という発明の重みを、ほんの一瞬だけ思い返していた。
2025年8月 インド 乗り物 | |
自動車 車窓 ムンバイ |
No
12894
撮影年月
2024年5月
投稿日
2025年08月26日
撮影場所
ムンバイ / インド
ジャンル
ストリート・フォトグラフィー
カメラ
SONY ALPHA 7R V
レンズ
ZEISS BATIS 2/40 CF