ベンチェーの市場通りを外れた路地に、小さなカフェがぽつんと口を開けていた。店頭には年季の入った長椅子がいくつも並び、その一つに、白髪を風に泳がせた老人が腰を下ろしていた。真新しいとは言えない白いTシャツに、日に焼けた腕。鼻の上には大ぶりなサングラスが鎮座し、そのレンズ越しに、こちらを興味深げに観察しているようでもある。どうやら彼のサングラスには、一眼レフカメラを片手にウロウロしている私の姿が、妙に小さく映り込んでいたらしい。
この国、ベトナムでは、カフェとコーヒーは生活の一部であり、もはや宗教的行事に近い。フランス統治時代に持ち込まれたアラビカ種やロブスタ種が、今や街角のあらゆる店先で湯気を上げている。特に南部は甘い練乳を加えたカフェ・スア・ダーが主流で、飲むというより、舐めるに近い。老人も、そんな甘ったるい一杯を手元に置いていたが、ほとんど減っていない。もしかすると、ただここで時を過ごすこと自体が目的なのかもしれない。
ベンチェーといえばメコン川の支流に浮かぶココナッツの町だが、観光客が訪れると、地元の人々はおおむね陽気に応じる。もっとも、この老人の笑顔も、心の底からの歓迎というより、「まあ座っていけ」という半分儀礼的なものかもしれない。そう考えると、どこか内田百閒の旅先での出会いを思わせる。無駄な会話はなく、しかし写真には収められ、あとは風にまかせるだけだ。こうして私は、ベトナムの片隅で、白髪の紳士の静かな午後に少しだけ同席した。
2009年6月 人びと ベトナム | |
ベンチェー カフェ 白髪 反射 サングラス |
No
2893
撮影年月
2009年3月
投稿日
2009年06月16日
更新日
2025年08月13日
撮影場所
ベンチェー / ベトナム
ジャンル
ポートレイト写真
カメラ
CANON EOS 1V
レンズ
EF85MM F1.2L II USM