ベトナム南部の町、ミトーの市場の片隅で、編笠を被った老婆が椅子に腰を下ろしていた。腰を下ろすというより、背もたれに体を預け、重力に任せて沈み込んでいると言ったほうが近い。買い物客の足音にも眉一つ動かさず、客が来るのを待っているのか、単に時間を持て余しているのか判然としない。
カメラを向けると、老婆は「写真を撮られる」という行為を知っているような、知らないような、微妙な表情を返してきた。笑顔でも怒り顔でもないその顔は、魚の干物のように陽に当たり過ぎて水分が抜けた結果の平常運転なのかもしれない。この国では編笠を被った女性を至る所で見かけるが、観光パンフレットに出てくる爽やかな農村風景とは異なり、実物は汗と埃の混合物を遮るための現実的な道具だ。
ベトナムの編笠は「ノンラー」と呼ばれ、竹や椰子の葉を素材にして軽く仕上げられている。雨除けにも日除けにもなり、さらに裏返せば即席の器としても使える万能品だ。ミトーの市場では、野菜を売る女も魚を捌く女も、たいていこの三角錐を頭に載せている。もっとも、観光客が同じものを被って歩けば、十中八九土産物屋の呼び込みに捕まるだろう。
老婆は結局、何も売らぬままじっと座り続けていた。もしかすると、売り物はすでに売り切れていて、今は市場の空気を売っているのかもしれない。値段は交渉制に違いないが、僕には買い方も買う勇気もなかった。
2009年8月 人びと ベトナム | |
うつろな顔 編笠 ミトー 老婆 静寂 |
No
3039
撮影年月
2009年3月
投稿日
2009年08月03日
更新日
2025年08月11日
撮影場所
ミトー / ベトナム
ジャンル
ポートレイト写真
カメラ
CANON EOS 1V
レンズ
EF85MM F1.2L II USM